顎関節症
◆ 顎関節症の始まりとその果てに待っているもの
これまで、顎関節症は下顎が後上方転位を起こすことにより起こる事、その原因は奥歯の咬み合わせが低くなる事により起こる事、治療開始の目安、治療方針などについて詳しく説明してきました。
勿論、これだけでは説明のつかない症例もあります。
全身症状がひどかったり、精神的な影響が大きく認められる症例では『下顎の後上方転位』だけでは説明のつかない症例が存在するのも確かです。
しかし、ほぼ99%の患者さんには、やはり『下顎の後上方転位』があり、これに対する治療が必要である事は間違いないと考えられます。
他の疾患もそうですが、教科書通りに症状が出る事は珍しく、一例一例を丁寧に治療してゆきながら治療方針を模索する事の繰り返しです。
ここでは、私の日常の診療を通して感じる事を述べてみたいと思います。
■顎関節症はどのようにして発症するのでしょうか?
初発症状と原因
すでに述べましたように、急に『顎がカクカク鳴る』『口があけづらい』といった症状を自覚する事で、顎の異常に気付くというケースが最も多いと思います。
では、何故こんな症状が急におこるのでしょうか?
何か原因がありそうですね。
当院を受診された患者さんに、色々と聞いてみますと、この原因は、症状が出るかなり前からあったと考えられます。人によっては、原因の始まりが20年も30年も前にさかのぼる事も珍しくありません。
では、その間には何故特別な症状を出さないのでしょうか?
人間の体には、元々『恒常性』『代償性』という機能が備わっています。ある場所に不都合が起こった場合に、これを正常な状態に戻そうとしたり、不都合を別な機能で補って人体が一見正常な状態に見えるようにしてしまう機能です。
お口の中で例を挙げますと、たとえば奥から2番目の6歳臼歯を、たった1本失っただけで、食べ物を咬む効率が、83%になってしまうという報告を目にした事があります。
しかし、この状態を放置しておられる方がいかに多い事かといつも驚かされます。
では、この失われた17%の咬む力は、どのようにして生み出されるのでしょうか?
多分、他の歯がなくなった歯の代わりに頑張ってたべものを噛みこなしているのは間違いないでしょう。
しかし、人間の歯には1本1本神様から与えられた役割があり、他の歯で決してその肩代わりをすることはできないのです。
この事は、残された歯が毎日毎日残業をさせられて、こき使われ、それでも文句ひとつ言わずに働き続けているのと同じ事になります。 やがて、残りの歯が残業疲れを回復出来なくなると、次第に戦線離脱をしようとして歯が傾いたり、あるいははぐきの中に潜ったりして、負担を減らそうとします。
それでも、仕事は毎日毎日こなさなくてはなりません。
次に無理をして被害を被るのは、噛みあわせる力を強くだそうとして収縮する咬み合わせに関係する筋肉と、それを陰でサポートする顎関節です。
今度は、筋肉と顎関節が頑張って、咬む効率を落とさないように頑張ります。
しかし、これにも限界があります。
さらに、この時期には、多くのケースで他の歯も失われている事が多いと思います。
やがて、矢折れて、力尽き果てます。
この状態になって始めて『顎がカクカク鳴る』『口があけづらい』という症状が出てくるのです。
別に歯を抜かれる事がなくても、噛み締めや歯軋りなどによって奥歯が低くなると、同じような経過をたどって症状が現われます。
さらに、この症状の発現には、確実に『ストレス』が大きく関与しています。
ですから顎関節症の原因を考える時、複数の原因が重なった末におこった症状であることに十分気をつけなくてはなりません。
■顎関節症はどのように進行するのでしょうか?
顎関節症の症状の始まり
さて、顎関節症が起こってくる時には、ある動作がきっかけとなって症状が現われる事が多いようです。そして、その後は症状がどんどん悪化してゆきます。
顎関節症が発症するきっかけとしては色々ありますが、日常の些細な動作きっかけとなります。
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○たまたま硬い食べ物を咬んだ。
この動作がきっかけになって顎関節症が起こるケースはそうめずらしくありません。
以後、はてしない歯痛・顎関節痛に苦しめられる原因としては、かなり頻度の高い動作です。
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○パソコンに熱中して、たまたま奥歯で強く食いしばった。
仕事に熱中するあまり、思わず奥歯で噛み締めてしまったという経験はありませんか?
顎関節症が起こる原因としては、よくあるものです。
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○頬杖をつく習慣がある。
このような、可愛らしいしぐさも、厄介な顎関節症の原因となるのです。
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たったこれだけの事がきっかけとなり、顎関節症の症状が起こり、その後は坂を転げ落ちるように症状が悪化してゆき、あわててあちこちの病院・歯科医院等を探して受診して治療を開始する。
症状が好転しないので、別の医療機関や針灸院などに通う。
それでも、よくならない。
次第に精神的に余裕がなくなり、切羽詰った状態となり、精神状態も不安定となり、延々と病院廻りを繰り返す。・・・・でも、良くならない。
日本人の特徴として、
目に見えて効果が直ぐに現われるものには感動し興味を持ちます。しかし、効果がすぐに目に見えて現われないと短気を起こしてしまう傾向にあります。
多くの場合には、歯科医院でじっくりと丁寧な治療を行えば、次第に治癒に向かうはずなのですが、どうも待ちきれないというのが実態のようです。
顎関節症という病気は、症状が現われる前に根本的な原因が隠れていて、それを生体が必死になって修復しようと試み、これが限界に達した時に、一気に症状が現われますので、治療の効果が現われるのに、一定の期間がかかるのは仕方がありません。
しかし、一旦具合の悪い症状を気にしだすと、今度はなかなか治癒しない事が歯科医師への不信感へと変わり、いつ終わるともしれない病院廻りが延々と続いているのが実態です。
顎関節症の症状の進行
局所に現われる症状もさまざまですが、最も辛いのは痛みのようです。
○顎の関節の部分が痛い。
○特定の歯が痛い。
○毎日痛い歯が変わる。
○顎がつっぱって、痺れたような感じがする。
一番最初に現われた症状に引き続いて、上記のような症状がだらだらと続いたり、日によっては『治ったかな!』と思うほど痛みがきえますが、翌日になるとまた痛む、酷い場合には、持続的にかなりの痛みが起こる場合もあります。
こうなると、今度はこの痛みにばかり目が向いて、『この痛みを取って下さい。』と歯科医師に懇願して痛み止めを処方してもらい、これに頼るようになり、原因を除去する事がおろそかになります。
こうなると完全に負のスパイラル(悪循環)に飲み込まれてしまいます。
痛みが首尾よく治まると、歯科医師の指示を忘れ治療を中断します。
でも、原因が除去されていませんので、やがてまた同じ症状に悩まされる事になります。
その結果、
『もう、何年も歯医者に通っているのに治らない。』
この程度ならば、まだましな方で、眼精疲労、激しい肩こり、顎関節部の激しい痛み、顔がはれぼったいような気がする、息が苦しい様な気がする、耳鳴りも激しい、手足のしびれや痛みがあるといったような複数の全身症状が次から次へと起こるようになります。
こうなると、普段の生活でまともに立っている事さえつらくなり、一日中横になって、何をする気にもなず、不都合な全身症状との闘病生活を送っておられる方も珍しくありません。
さらに不幸な事に、顎関節症(咬み合わせ)でこのような症状が出るという事実は、まだまだ一般に受け入れ難いようで、家族や友人に話しても苦しみを理解してもらえない事が、患者さんの精神状態に追い討ちをかける結果になっています。
■顎関節症治療の前に立ちはだかるもの
病気は何でもそうですが、早く治療を開始した方が、治るのも早いのは当然です。
顎関節症も立派な『病気』ですから、早期に治療を開始すれば、速やかに治癒に向かうのですが、初期の軽度の症状の患者さんにとってなかなか治療を開始出来ない場合があります。
顎関節症の治療を受ける際に、皆さんが一番考え込み、治療に踏み切る勇気が出ないのは次の二つの理由が考えられます。
① 治療費の問題
② 治療後におこる審美性の問題
まず、原因の大半がデコボコの歯並びを綺麗に修正すれば、下顎の後上方転位も自然に補正され、それに伴って顎関節症の症状も消えてしまうという症例がかなりあります。
こういった場合には、歯の矯正治療が適応になるのですが、治療にかかる期間も比較的長く、また、健康保険も適用されないために多額の治療費が必要になるケースも稀ではありません。
躊躇していても、顎関節症が治る訳ではないのですが、考えている間に時間だけが過ぎてゆき、症状が繰り返し出てきてもなかなか決心がつかず、結局、咬み合わせに関与する筋肉の拘縮はますます激しくなり、下顎の後上方転位はかなり酷くなり、結局は『難症例』と呼ばれるような状態にまで悪化します。
こうなると、矯正治療どころではなくなってしまい、繰り返し繰り返し襲ってくる歯や顎の痛みを痛み止めの薬で誤魔化しながら生活し、挙句の果てに自分でどうしてよいのか分らない状態にまで追い詰められる事が、少なからずあるようです。
また、顎関節症が下顎の後上方転位が直接の原因であるとすれば、その治療方針は必然的に、下顎を前方に、そして下方に誘導するという事になります。
下顎が下方に移動すれば、当然上下の奥歯の間に隙間が出来る事になります。
下の2枚の写真を御覧下さい。
上の写真は、顎関節症治療によって下顎を前方に、そして下方に誘導した状態です。
上下の奥歯の間には隙間が出来ますので、この状態は下の奥歯の上にプラスチックを盛り上げて、その隙間を埋めて、下顎の状態を安定させている状態です。
ピンク色の部分が盛り上げたプラスチックです。通常は白色の歯の色と似たような色調のプラスチックを使用します。
さて、この状態で後上方転位を起こした下顎が前下方へと誘導され、顎関節症がほぼ治癒している状態となります。
しかし、このまま放置するとプラスチックが磨り減って、再び下顎が後上方に移動して元の木阿弥になってしまいます。
そこで、このプラスチックを盛り上げた部分を硬い、磨り減らない修復物に置き換えなくてはなりません。
材料の候補は『金属』か『セラミックス』が最適でしょう。
でも、もし金属を使用すると、奥歯がすべて金属の冠となってしまい、お口を開けるたびにギラギラ光る事になります。
それでは、セラミックスを使用しようとしても、それなりの治療費が必要になります。
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この『審美性』と『治療費』との狭間で考え込んでしまうのは当然の事でしょう。
しかし、何もせずに放置すれば、、結局、自分でどうしてよいのか分らない様な、酷い状態にまで追い詰められる事になります。
顎関節症治療における費用の問題は、治療の進行過程でも起こってくる可能性がある事は既に述べました。
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健康で、笑顔に満ちた生活を送るためには、顎関節症になってしまったら、やはり完全に治療をして、治癒させなくてはなくてはならない事は事実です。
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■顎関節症を放置した先にまっているもの
では、顎関節症を治療せずに放置したらどうなるのでしょうか?
顎関節症と全身症状
①あごが痛む
顎関節および周辺の頬やこめかみの痛み。口の開け閉め、食べ物を噛むときなど、あごを動かした時に痛む。
②口が大きく開けられない(開口障害)
正常な人は縦に指三本分入る(40~50㎜)が、指が2本程度(30mm)もしくはそれ以下しか入らない。
あごを動かすと痛むので無意識に動きを抑えてしまっている場合と、顎関節の異常で口が大きく開けられない場合とがある。
③あごを動かすと音がする(関節雑音)
あごを動かしたときに耳の前あたりで「カクカク」音がする。「ジャリジャリ」「ミシミシ」といった音の場合もある。
④噛み合わせに違和感がある
あごの関節や筋肉に問題があると、あごの動きに変化が生じて噛み合わせが変わることがある。
⑤口を完全に閉じることができない
稀に、あごの関節内の構造の異常のため上下の歯列の間に隙間ができて、口が完全に閉じられなくなる場合がある。
○その他の症状
頭痛、首や肩・背中の痛み、腰痛、肩こりなどの全身におよぶ痛み
顎関節部やその周辺の痛み
耳の痛み、耳鳴り、耳が詰まった感じ、難聴、めまい
眼の疲れ、充血、流涙
歯の痛み、舌の痛み、味覚の異常、口の乾燥感
嚥下困難、呼吸困難、四肢のしびれ
このような症状は、一旦発症したら、症状が出たり治ったりを繰り返し、最終的には持病のような状態となり、これらの症状を引きずったまま生活していかなくてはならない事になります。
やがて、このような症状は精神状態を疲弊させ、一日中ソファーに横たわっていたり、床に伏せりがちになってしまい、まともな日常生活を送る事が出来なくなります。
顎関節症と精神状態
パニック障害やうつ病
急に胸がドキドキして・・・・息ができない!!! 私、大丈夫なの?
「胸がドキドキして息ができない」「このまま死ぬのではないか」という強い不安・・・
突然こんな激しい発作におそわれる状態がパニック障害です。
主に心臓を中心とした自律神経症状が複数重なって起こります。
症状は10分以内にピークに達し、数分から一時間以内におさまることがほとんどです。
「死ぬのではないか」と恐怖し、救急車で病院に運ばれても、その頃には症状は治まっており、検査をしても身体はどこも悪くないので異常はみつかりません。
うつ病は、気分障害の一種であり、抑うつ気分や不安・焦燥、精神活動の低下、食欲低下、不眠症などを特徴とする精神的な疾患です。
少し変わった症状としては、意味のない単純な動作を繰り返すといった状態も認められます。(治療が終わった後、意味もなく病院の周囲を、ただグルグル歩き回る)
顎関節症の進行した状態では、多かれ少なかれ、このような状態が起こる事の方が多いようです。
症状の程度は日常生活にはとりあえず差し支えないといった軽度のものから、「もう、生きているのが辛い」というような自殺願望・自殺企画を伴ったものまでさまざまです。
当院を受診された顎関節症の患者さんにも、このような症状が認められる事があります。
このような患者さんの話を詳しく聞くたびに、私はある仏教の信者の方から聞いた話を思い出します。(宗派などはよく覚えていません)
仏教の世界では、人間の精神の状態を6つの段階に分類するのだそうです。
①天国界(精神的に最も良い状態)
②精霊界
③修羅界
④餓鬼界
⑤畜生界
⑥地獄界(精神的に最も悪い状態)
一般に良く耳にする、天国とか地獄というものは、死後の世界の話ではなく、現世に生きている人間の置かれている、精神的な立場・状態を表すものだそうです。
この話を聞いた時には『ふむふむ、そうなのか!』ぐらいにしか感じませんでしたが、大学を卒業し、社会に出て、歯科医師として仕事をしてゆく内に、当然の事として受け入れられるようになった気がします。
顎関節症を放置した果てに待っているものは『あてどもなく地獄界をさまよう』事に他ならないと思える、今日この頃です。
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